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2015.12.31

「スクールカースト」の思索2:「いじめはどこにでもある&なくせない」と言っていいのか?

『「いじめはどこにでもある=いじめはなくせない」と言うときの「いじめ」が指し示すもの、その全てが、いじめと呼べるものなのか?』

「どこにでもある」かつ「なくせない」、というものは、いじめとは呼べないだろう!
(皆さんの目の前に複数人の人がいたら、そこで必ずいじめが起こっている、という高い確率で存在するレベルでなければ「どこにでもあってなくせない」と表現できるものではない(=どこにでもあるというわけではない))

…と、約30年前の中学、高校、大学の頃と、素朴に思っていました!

ですが、日常で不快を感じる何かは、どこにでもあります!

その何かが、別なきっかけで「いじめ」と呼ばれる、酷い行為になるのでは?

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 この僕の中での仮説が、「やっぱりか!」と確信する記述がありました。

(『教室内(スクール)カースト』 p.50-51)
「「いじめ」の歴史は決して古くはありません。少なくとも日本で、「いじめ」という言葉が普及し、社会問題となったのは、1980年代半ばごろの話です。
 具体的には1986年。「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」という遺書を残して男子中学生が自殺した、東京都中野富士見中学校の「葬式ごっこ事件」がきっかけだったと言われています。
 (中略)
 このころのに行われた初期の研究の幾つかを見てみると、いじめる子どもはどういう子どもで、いじめられているこどもはどういう子どもなのか、つまり「加害者」と「被害者」の特徴を明らかにしようとした類(たぐい)の研究が大半を占めていることがわかります。
 (中略)
 じつは、これらの研究が明らかにしたのは、「加害者」や「被害者」の特徴は、いまいちよくわからないということでした。」

 研究が次の段階に移ると、「被害者」「加害者」のみならず、周囲を含めた4層構造に着目され、またこの考え方は、現場にも降りてきていました(=私も現場で聞きました)。

 ですが私が教員として就職し、現場で見てきたのは、「いじめ」もあったものの、数が圧倒的に多いのは「いじめ」とは呼べない、些細ないざこざでした。

 しかしその「些細」と表現してしまったものの中に、当事者が耐え難いと感じてしまうケースはゼロではないだろうと考え続けてきました。

 このもやっとした感覚を、この本のあとがきで本田先生が言葉にしてくださりました。

(『教室内(スクール)カースト』 解説(p.294-295))
「著者は第2章で、「いじめ」の研究を振り返ったうえで、「いじり」や「悪ふざけ」などの「いじめチックなこと」が、おとなたちからは「ささいなこと」のように見えても、「なぜだかわからないけれど弱い立場にいる児童生徒」にとって「教室はおりのようなものになりえる」からには、それが「いじめ」かどうかにかかわりなく、なんとなく下に見られているような感覚」が生み出されているメカニズムこそを、データに基づいて正面から検証する必要がある、と宣言しています
 これはとても重要な観点だと思います。
 そう考える理由を、私なりの言葉で言い換えるならば、まず、生徒の間に発生している「上か下か」という関係性は、仮にそこに「上から下へ」のあからさまな悪意や侮蔑が強くない場合でさえも、「下」として扱われること自体が、その当事者にとってはとても苦しい状態であることが多いと思われるからです。」

 その悪意や侮蔑が強くない、些細なことの大きな1つに、「スクールカースト」があると感じます。
 なぜならばスクールカーストは、人間(日本人?)社会の中で敷衍的に容易に形成されてしまうからです。それが生じるメカニズムは、前回の記事「「スクールカースト」の思索:1」で指摘した

 ・値踏み
 ・同質の人間集団での上下

そして「本」は、私の仮説と一致した、大事なことを書いています。

(『教室内(スクール)カースト』 p.41)
「だけど僕は、厳密に言うと、「いじめ」と「スクールカースト」があることとは、完全に同じことではないと思っています。もっと言うと、「いじめ」だと認識される問題の多くは、「スクールカースト」があることによる弊害の一部なのではないかと思っています。」

|多分、多くの人が見逃す(>_<)

 つまり、どこにでもある(正確に言うと、生じている&見かける可能性がかなり高い)のは「スクールカースト」で、これは、生じるメカニズムが人間の本性であるかぎり、なくせない、でしょう。
 しかしながら、弊害として派生する「いじめ」は、食い止めることができるはずなのです!

 そしてこの「本」は、「スクールカースト」と「いじめ」の分離について言及しています。

(『教室内(スクール)カースト』)
「(p.40)「いじめ」の仕組みを説明するうえで、「スクールカースト」がその要因として登場することは、たびたびありましたが、「いじめ」の文脈をはずした状況で「スクールカースト」が検証されることは、ほとんどありませんでした。

「(p.64,65)先に説明したように、「いじり」や「悪ふざけ」などの、いわば「いじめチックなこと」は、おとなたちから「ささいなこと」だと判断されてしまう可能性がかなりあります。その「ささいなこと」が「いじめ」であるかどうかは、その行為自体の内容の問題ではなく、「認識」の問題であるようです。
 そうであれば、これ以降、同様の問題を引き起こさないためには、「いじめ」と認識されるかどうかはひとまず置いておいて、なぜだかよくわからないけど強い立場にいる児童生徒と、なぜだかわからないけど弱い立場にいる児童生徒のような関係性が、どうして同学年の児童生徒間で生じているのかを、今いちど、検証しなおす必要があると考えられます。
 これから「いじめチックなこと」が、「いじめ」であるかどかはもはや関係ありません。「いじめ」の根本的な解決、そして解明を目指すには、「いじめ」と認識されるかされないかは関係なく、行為それ自体を対象として検証すべきだと思うのです。
 特に、同学年の児童生徒間ですしたことが普通に起こっているならば、なおさらです。」

 私は、上述される検証の前に、「スクールカースト」と「いじめ」の分離されたならば、下記の場合分けを考えるのが筋でしょう。

  • スクールカースト有り×いじめ有り(←これが一番ひどい事例が生じそう)
     
  • スクールカースト有り×いじめ無し
     
  • スクールカースト無し×いじめ有り
     
  • スクールカースト無し×いじめ無し(←ゼロではないと予想)

【小結論】
 教科書通りのいじめは、現在ではレア!
(『教室内(スクール)カースト』p.65)
「教育現場に入ると、自他ともにはっきりと認識できる、教科書通りの「いじめ」は、今やかなりのレアケースになっているような気がします。」

 そして、時代が進み、現在では「コミュニケーション操作型のいじめ」と移っていまして、その理解と対応が必要となっていると思われます。

(『教室内(スクール)カースト』p.55-56)
「社会学者の内藤朝雄さんは「いじめ」を「暴力系のいじめ」と「コミュニケーション操作系のいじめ」に分類しています(内藤朝雄『いじめの構造』講談社・2009年)。
 「暴力系のいじめ」というのは、文字通り「殴る蹴る」や「金銭を脅し取る」などの身体的な攻撃を与えるような「いじめ」です。一方、「コミュニケーション操作性のいじめ」というのは、いわば「シカト」や「悪い噂を流布させる」といった、「被害者」の学校生活でのコミュニケーションのあり方を制限させるような「いじめ」です。
 (中略)
 深刻なのは、やはり日本の学校で蔓延しているとされる、「コミュニケーション操作系のいじめ」であると考えるのが妥当でしょう。
 先に述べたように、教室という「閉じた空間」で大部分の時間を過ごさなければならない日本の学校は、効率的に知識を伝達しやすいという利点がある一方で、コミュニケーション操作系」を生み出しやすいという副作用を持っているように思えます。」

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 いじめの防止、というより、いじめの予防のことを考えた「いじめの起きにくい環境づくり」についてのヒントこそ、上記のことを認識することからではないかと考えます。

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追伸:
 大晦日なのに重たい話題でゴメンナサイ。
 年が明けたら、(1)『天童中1自殺報告書』と比べて私の仮説を検証しつつ、(2)コミュニケーションの改善が「コミュニケーション操作系のいじめ」の改善に繋がるのではないか、という予測について述べてみます。
 

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