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2015年12月の5件の記事

2015.12.31

「道半ば」な2015年を振り返って

 毎年恒例(去年(2014年)は コチラ )の、紅白を見ながら1年を振り返ってBlog記事を作成するお時間です!

 なお只今、新しいPCで作成中です!

Img_20151231_221024_2今回もPanasonic

 今までのPCがWindows10未対応で、かつバッテリーが消耗しており・・・どうせお金をかけるなら仕事がバリバリできるPanasonicのハイエンドマシンを…と、妻にお許し頂いて買いました!(妻に最敬礼m(_ _)m)

|本体の色がブラックなのがやや残念

 ということで、今年正月の目標を コチラ で確認します。

|【大目標】
| これから1年間、上手に仕事をして、来年の正月は時間的・精神的に
|ゆとりをがある状態にする!

 単純に、高3の受験クラスの担任から高2の担任になったことで、今年の正月は少し気が楽です

 でも、理想通りの負担軽減ではない、と、妻が申しております

 確かに、もう少し、仕事も身の回りも、スッキリさせたかったなぁ。

|【小目標~物理教育にICTをトッピング&ディベート教育】
|・録りためした物理の動画を活用することに加えて、アナログ的なアプローチも
加味して、生徒達が「分かる!」教育アプローチを編み出す
||上手く行っても行かなくても、結果を報告する。

 まだ理想的ではないのですが、下記のように報告できました
『NAKO私塾』とは、中等教育における“低価格ICT活用型適応学習システム”

 もう少し改善の余地があることを自覚していますので、2016年に改善します!

|・ディベートの教育的実践に取り組む
||できれば、多くの皆さんのお役に立つように取りまとめる。

 これはようやく、具体的に動き出しました。
 しかしこれも完ぺきではありません。
 具体的となったアイディアを、皆さんのお役に立つようにまとめる作業を、2016年に実行に移します。

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「スクールカースト」の思索2:「いじめはどこにでもある&なくせない」と言っていいのか?

『「いじめはどこにでもある=いじめはなくせない」と言うときの「いじめ」が指し示すもの、その全てが、いじめと呼べるものなのか?』

「どこにでもある」かつ「なくせない」、というものは、いじめとは呼べないだろう!
(皆さんの目の前に複数人の人がいたら、そこで必ずいじめが起こっている、という高い確率で存在するレベルでなければ「どこにでもあってなくせない」と表現できるものではない(=どこにでもあるというわけではない))

…と、約30年前の中学、高校、大学の頃と、素朴に思っていました!

ですが、日常で不快を感じる何かは、どこにでもあります!

その何かが、別なきっかけで「いじめ」と呼ばれる、酷い行為になるのでは?

-----

 この僕の中での仮説が、「やっぱりか!」と確信する記述がありました。

(『教室内(スクール)カースト』 p.50-51)
「「いじめ」の歴史は決して古くはありません。少なくとも日本で、「いじめ」という言葉が普及し、社会問題となったのは、1980年代半ばごろの話です。
 具体的には1986年。「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」という遺書を残して男子中学生が自殺した、東京都中野富士見中学校の「葬式ごっこ事件」がきっかけだったと言われています。
 (中略)
 このころのに行われた初期の研究の幾つかを見てみると、いじめる子どもはどういう子どもで、いじめられているこどもはどういう子どもなのか、つまり「加害者」と「被害者」の特徴を明らかにしようとした類(たぐい)の研究が大半を占めていることがわかります。
 (中略)
 じつは、これらの研究が明らかにしたのは、「加害者」や「被害者」の特徴は、いまいちよくわからないということでした。」

 研究が次の段階に移ると、「被害者」「加害者」のみならず、周囲を含めた4層構造に着目され、またこの考え方は、現場にも降りてきていました(=私も現場で聞きました)。

 ですが私が教員として就職し、現場で見てきたのは、「いじめ」もあったものの、数が圧倒的に多いのは「いじめ」とは呼べない、些細ないざこざでした。

 しかしその「些細」と表現してしまったものの中に、当事者が耐え難いと感じてしまうケースはゼロではないだろうと考え続けてきました。

 このもやっとした感覚を、この本のあとがきで本田先生が言葉にしてくださりました。

(『教室内(スクール)カースト』 解説(p.294-295))
「著者は第2章で、「いじめ」の研究を振り返ったうえで、「いじり」や「悪ふざけ」などの「いじめチックなこと」が、おとなたちからは「ささいなこと」のように見えても、「なぜだかわからないけれど弱い立場にいる児童生徒」にとって「教室はおりのようなものになりえる」からには、それが「いじめ」かどうかにかかわりなく、なんとなく下に見られているような感覚」が生み出されているメカニズムこそを、データに基づいて正面から検証する必要がある、と宣言しています
 これはとても重要な観点だと思います。
 そう考える理由を、私なりの言葉で言い換えるならば、まず、生徒の間に発生している「上か下か」という関係性は、仮にそこに「上から下へ」のあからさまな悪意や侮蔑が強くない場合でさえも、「下」として扱われること自体が、その当事者にとってはとても苦しい状態であることが多いと思われるからです。」

 その悪意や侮蔑が強くない、些細なことの大きな1つに、「スクールカースト」があると感じます。
 なぜならばスクールカーストは、人間(日本人?)社会の中で敷衍的に容易に形成されてしまうからです。それが生じるメカニズムは、前回の記事「「スクールカースト」の思索:1」で指摘した

 ・値踏み
 ・同質の人間集団での上下

そして「本」は、私の仮説と一致した、大事なことを書いています。

(『教室内(スクール)カースト』 p.41)
「だけど僕は、厳密に言うと、「いじめ」と「スクールカースト」があることとは、完全に同じことではないと思っています。もっと言うと、「いじめ」だと認識される問題の多くは、「スクールカースト」があることによる弊害の一部なのではないかと思っています。」

|多分、多くの人が見逃す(>_<)

 つまり、どこにでもある(正確に言うと、生じている&見かける可能性がかなり高い)のは「スクールカースト」で、これは、生じるメカニズムが人間の本性であるかぎり、なくせない、でしょう。
 しかしながら、弊害として派生する「いじめ」は、食い止めることができるはずなのです!

 そしてこの「本」は、「スクールカースト」と「いじめ」の分離について言及しています。

(『教室内(スクール)カースト』)
「(p.40)「いじめ」の仕組みを説明するうえで、「スクールカースト」がその要因として登場することは、たびたびありましたが、「いじめ」の文脈をはずした状況で「スクールカースト」が検証されることは、ほとんどありませんでした。

「(p.64,65)先に説明したように、「いじり」や「悪ふざけ」などの、いわば「いじめチックなこと」は、おとなたちから「ささいなこと」だと判断されてしまう可能性がかなりあります。その「ささいなこと」が「いじめ」であるかどうかは、その行為自体の内容の問題ではなく、「認識」の問題であるようです。
 そうであれば、これ以降、同様の問題を引き起こさないためには、「いじめ」と認識されるかどうかはひとまず置いておいて、なぜだかよくわからないけど強い立場にいる児童生徒と、なぜだかわからないけど弱い立場にいる児童生徒のような関係性が、どうして同学年の児童生徒間で生じているのかを、今いちど、検証しなおす必要があると考えられます。
 これから「いじめチックなこと」が、「いじめ」であるかどかはもはや関係ありません。「いじめ」の根本的な解決、そして解明を目指すには、「いじめ」と認識されるかされないかは関係なく、行為それ自体を対象として検証すべきだと思うのです。
 特に、同学年の児童生徒間ですしたことが普通に起こっているならば、なおさらです。」

 私は、上述される検証の前に、「スクールカースト」と「いじめ」の分離されたならば、下記の場合分けを考えるのが筋でしょう。

  • スクールカースト有り×いじめ有り(←これが一番ひどい事例が生じそう)
     
  • スクールカースト有り×いじめ無し
     
  • スクールカースト無し×いじめ有り
     
  • スクールカースト無し×いじめ無し(←ゼロではないと予想)

【小結論】
 教科書通りのいじめは、現在ではレア!
(『教室内(スクール)カースト』p.65)
「教育現場に入ると、自他ともにはっきりと認識できる、教科書通りの「いじめ」は、今やかなりのレアケースになっているような気がします。」

 そして、時代が進み、現在では「コミュニケーション操作型のいじめ」と移っていまして、その理解と対応が必要となっていると思われます。

(『教室内(スクール)カースト』p.55-56)
「社会学者の内藤朝雄さんは「いじめ」を「暴力系のいじめ」と「コミュニケーション操作系のいじめ」に分類しています(内藤朝雄『いじめの構造』講談社・2009年)。
 「暴力系のいじめ」というのは、文字通り「殴る蹴る」や「金銭を脅し取る」などの身体的な攻撃を与えるような「いじめ」です。一方、「コミュニケーション操作性のいじめ」というのは、いわば「シカト」や「悪い噂を流布させる」といった、「被害者」の学校生活でのコミュニケーションのあり方を制限させるような「いじめ」です。
 (中略)
 深刻なのは、やはり日本の学校で蔓延しているとされる、「コミュニケーション操作系のいじめ」であると考えるのが妥当でしょう。
 先に述べたように、教室という「閉じた空間」で大部分の時間を過ごさなければならない日本の学校は、効率的に知識を伝達しやすいという利点がある一方で、コミュニケーション操作系」を生み出しやすいという副作用を持っているように思えます。」

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 いじめの防止、というより、いじめの予防のことを考えた「いじめの起きにくい環境づくり」についてのヒントこそ、上記のことを認識することからではないかと考えます。

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2015.12.29

「たましいを育てる」=「自分の脳ミソで考える」子どもを育てる

 Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」に、『やまびこ学校』で有名な無着成恭 先生が出演されてました。ビデオに録画していたものを、先ほどようやく観ました。

 番組の中で仏教の本からの引用で「師は必ず弟子の問うを待って発話するなり」という言葉がありました。
 無着成恭 氏から「そうでなければ我田引水になってしまう」というご発言がありました。

 これは即ち、まずは学び手が考えるのが先で、学び手が必要性を感じて問いかけがあってから(=その後から)伝える(教える)ということで、教育は今で言う「アクティブ・ラーニング」であるべしということをおっしゃれているのです!

 学校は、「教わるー教える」のあるべき姿の教えを、どこかで立ち消えにしてしまったのですね!

 それについての解説もありました!!

 原因は『時代のうねり』と言っていました。
 「戦後が終わった」という時代に、農業国家から産業国家に移行します。国民全体が「所得倍増」を目指します
 この「高度経済成長」の時代に、受験競争の激化、知識の詰め込み、点数至上主義と、学校が変貌します。

すると、「(知識を)つめ込まなくてはならない」→「質問を受け付ける時間がない」⇒「質問をさせないシステム」を構築されてしまう、となります。

 要は昨今言われるワンウェイ授業の確立ですね。
 一昨日、書いた記事のとおりです。

 その中で、「やわらかい魂をもった子どもが振り落とされる」ことが起こります。無着成恭 氏はそれを「日本の損失」と言ってました。「『なぜ落ちこぼさせられたのか』とも考える余裕もなく、落ちこぼれる」とう現象が起きます。

 本当は落ちこぼれる必要のない子どもの仏性を認めないから、暴力沙汰の現象が起こる、とも申しておりました。

 丁度私が、子どもころに大きな問題となった現象(校内暴力やツッパリブームなど)ですね。

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 教員は『たましいの技師』であるべきと、無着成恭 氏はいいます。
 「たましいを育てる」=「自分の脳ミソで考える」子どもを育てるのが、教員の本来の務めだと申しておりました。

 全く「アクティブ・ラーニング」そのものです!!

 結局、高度経済成長からの転換期に、社会の影響を受けるのがワンテンポ遅い教育現場で働く教育関係者が、前進しつつも上手にコーナーを曲がる必要がある、ということだと思われます。

 社会が転換期を迎えているのですから、「変わらなきゃ」と痛感する先生方も徐々に増えて来て、教育全体も変わっていく方向に流れを作らねば、と思う次第です。

 ということで、一昨日書いた記事での展望が裏付けられた形でした

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2015.12.27

アクティブ・ラーニングにシフトしない要因を踏まえての展望

 11月に、Facebook『反転授業の研究』グループ主催のオンライン勉強会に、岩手県立大野高等学校校長の下町壽男先生が登壇され、お話を伺いました。
 その中の、ほんの短い説明に、私ははっとさせられました。

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授業における旧パラダイムを良しと考える人達

 学校の教員は、自分で自分を磨くために、身銭を切ることをしない=自己研鑚がなく、世界や世の中の変化に対応するような教育ができない。

 学校という閉じた世界で、受験のための知識を、上から目線で、データ化して、量をこなしてやっていく…そいうこと(そこから生まれた進学等の実績)に価値を見出している
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 パラダイムとは「ある時代のものの見方・考え方を支配する認識の枠組み」とあります。
まさに「(授業、及び学校の目的が)進学等の実績に価値を見出す枠組み」にガッチリと心奪われている状態が、日本の学校教育における旧パラダイムだと思われます。

 何故、旧パラダイムの授業・学校から抜け出せないのか?
 2つの強力な支持層があるからだと思われます。

(1)入学生の保護者、及び(進学希望の)児童・生徒たち
 学校選びに、その学校の進学率&進学先、または就職率&就職先を重視する人は、過半数を超えていると予想されます。

(2)学校側や教員側が「やるべきことをやりました」と示しやすい。
 旧パラダイムの授業をしていれば、「~~を教えました」「~~に時間をかけました」と、証拠を示しやすいですよね。
 すると、本来伸ばしたい資質が仮に伸びていなくても、責任を問われにくい構造になっていると思われます。

 それにプラスして、実際「量をこなしてやっていく」ことは、着実な成果に繋がりやすい道筋として確立しているのです。
 結局、試行錯誤を繰り返し、失敗から学んで、多くの経験からイメージ作りに成功し、必要な理解にたどり着く、という道筋を、教員や保護者は好んで選ばせ、児童・生徒も、より多くこなすことが大切だ、と思っているはずです。

 すると、例えば長期の休みは宿題だらけ、とかなっている学校さんは多くあるはず。
 ゆとりがない生徒達は、答えを書き写して「叱られなければ御の字」という取り組みのスタイルに陥ります。すると、叱られないことを優先して、問題を解くためのプロセスは、児童・生徒にとっては大事ではなくなります。答えがなければ取り組めない児童・生徒の誕生です。
 これが、企業にとって好ましくない結果、のはずです。(なぜ企業か、は後ほど)

 一方で、「量をこなさせる」ことが大事だと思うと、教員側も、より効率よく量をこなさせる方向で考えます。
 ですが、取り組ませた課題をチェックし、一人ひとりに適切なフィードバックを返さないと、効果は上がりません
 よって、真っ当な教育をしようと考える真面目な教員ほど、労働過剰に苦しむことになります。
 (深刻なのは、教員側が上手に手を抜く&児童・生徒側は答えを書き写すだけ⇒結局、課題はクリア&児童・生徒は何も学べていない、けど進級する、というパターンを生み出していることでしょう)

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 まとめると
 「(授業、及び学校の目的が)進学等の実績に価値を見出す枠組み」となっていて、
 その手段が「量をこなしてやっていく」ことになっていて、
 自らの首を縛るように「教員の労働過剰」を生み出し
 それを避けるために、一部、評価等に手を抜く教員の存在が、プロセスの理解に手を抜く《雑な学び》をする児童・生徒を生み出し
 企業側が「そんな人材は必要ない」と教育側を批判するも、
 教員側は「企業側の論理で教育しているのではない&結局は進学等の実績が…」

旧パラダイムの教育を続ける方向にシフトしている現状が続くのだと思います。

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 この現状を踏まえなければ、「アクティブ・ラーニング」は普及しないと思っています。

 つまり
 「進学も大事だという考えは否定しない」
 「一定量の学びは必要」
 「労働過剰は問題」
 であっても、【授業における学びのプロセスは変革したほうが望ましい】

という観点で、児童・生徒に、プロセスの理解(「そうなるのは、なぜ?」と考える)に目が向くような授業設計をしましょう、というアプローチが、「アクティブ・ラーニング」の普及に必要なのだと思います。

 ワンウェイの授業では、ただ自分の座席で黒板を書き写し、授業のじゃまにならないように静かに先生の話を聞いているだけで、プロセスの理解をせずにやり過ごす児童・制度を生み出しがち、ということでしょう。旧パラダイムに縛られがちなら、尚更なのです。

 一方で「なぜ?」を大切にする授業づくりを続けてきた先生方も多いはずです。そういった先生方にとっては「なぜ今更『アクティブ・ラーニング』なのか?」と思うはずです。
 そういう先生の取り組みは今後も継続して頂ければ良いと思うのですが、「(1)旧パラダイムに縛られている先生方も、それ以上に多い」、「(2)「なぜ?」を大切にする授業を行う先生が一定数いたとしても、その先生が受け持たないどこかの学年において旧パラダイムで学び、旧パラダイムに染まった状態の卒業生の方が、総人数としては多い」ということだと思われます。

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 ですから、「アクティブ・ラーニング」の取り組みの今後を考えたときには、先生方の考え方を尊重しつつ、授業形態のマイナーチェンジを提案し続け、出来るだけ普及が進むことが大事なはずです。

 そして普及のためにはどうしても「考え方を変えたら成果が出ました」ではなく、「成果が出たので、考え方を改めました」】が必要、つまり、実際にやってもらって、成果を実感してもらって、合理的に「アクティブ・ラーニング」へとシフトしてもらう必要があると思っております。

 教員側にも「アクティブ・ラーニング」を実践しての【成功体験】を積んでもらう場が、各地にできれば、と思います。

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2015.12.13

「科学的に考える」とは?

 本校の研修旅行(理科コース)の3日目、午後のAGプログラム(グループ別研修)にてJT生命誌研究館を訪れ、西川伸一先生の講話で、生徒達は「科学的であるとはどういうことか?」と考えたことがあるか?との問いが与えられ、

「科学的」=「民主的」(≠権威的

であるという内容に、改めて強く心に留めた次第です。

 遠い昔の教会、現在では政府(政治家やお役人さん)、そして先生が言ったから正しい、というのではなく

「みんなと同じ結果を得るように。
 ×作り話
 ×捏造 」

という視点は大事です。

 最近は、旧来の黒板とチョークを用いた、教員側のワンウェイの授業が見直され、アクティブ・ラーニング型(AL型)授業の導入が、特に高校の教育現場では言われまていますが、私の受け持つ高校物理&中学理科は、誰が説明しようが、調べ学習をしようが、実験しようが、同じ結果を得るように「科学的に」考えることが大事です。

 ですが、必ずしもピッタリ同じにはならないのです(^^;

 そして、教科書や先生から教わる生徒達は、学校という場で長らく理科の学習を積んでいる中で、教員側の期待とは裏腹に、上記のような「科学的に」考えることに慣れていません

 講話の後で質問が出なかったので、私から「科学的に考えられるようになるコツは、どのようなものでしょうか?」と質問しました。
 すると西川先生は、

-----
(1)疑問に思う
(2)それはなぜか?と考える
(3)他人はどう考えているのか?と調べる。

 (他人の意見も、昔ど比べればインターネットで検索が可能、かつ容易
-----

と教えてくださりました。

 (1)は、科学の基本だと思いますが、(2)→(3)の順番を守ることが大事ですよね!
 (2)は、疲れる作業ですので、飛ばして(3)に行きたくなるところです。また、(2)の答えが誤っている可能性があるので、仮説を表明するのが恥ずかしい場合もあるでしょう。
 ですが、疲れる見込みを乗り越えて考えるという行為に至ることが大事です。また、そこで考えたことのすべてを表明しなくても、例えばノートやメモ用紙等に書き留めていて、後で捨てるくらいでもいいのです。「本当は最初から合っていました」という方が、捏造で、より好ましくないですから!

 「失敗は成功のもと」だと少しゆとりのある心構えで、(2)を先に、その後に(3)をチェック、という流れを、生徒達には身に付けてもらいたいです。

 その最終形として「ゴールへ(論理的に)(たどりつく根拠を、誰もが客観的に確認できる」状態であるか否かをチェックできるような姿勢を養い、習得してもらいたいです。

|いわゆる『クリティカル・シンキング』がそれに当たるのでしょうか

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