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2012年11月11日 - 2012年11月17日の2件の記事

2012.11.13

求む:より価格優しい&教員に易しいUstream配信方法

 金武@防衛医大さんからのコメントをヒントに、皆さんから情報を得たいと思いました!

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ICT慣れしていない教職員でも手軽に使いこなせるソフト)

 私の実践は価格メインで構成したので、接続の手間はややかかりますcoldsweats01

 何せ「安くて手軽な機器を購入してみたが、Ustream配信で活用しようと思ったらちょっと使えなかった&ほかに付属品の購入が必要だった…」というありがちな話になってしまう可能性があるので、あれもこれも買って試すということがしにくいですよねbearing

 皆さんからの配信成功の事例情報、お待ちしています!

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2012.11.12

〔「平等」「公平」な教育〕 vs 〔ICTによる自由な学び〕

 ある方からの紹介があり、苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』(1995年発行)を読み終えました。

 すると、私がもやもやと考えていた、以前もこのBlogで書いたICT教育に関する素朴な疑問の答えとなるような内容がありましたので、その内容を中心に紹介します。

#その他の重要な内容もこの本は扱っているのですが、今回は趣旨にあった部分
#のみ引用していることをご理解ください。

-----

[1]
「教育における競争と拡大が織りなしてきた、「大衆教育社会」の成立とその帰結。本書では、戦後の日本社会の特徴を、「大衆教育社会」としてとらえる。大衆教育社会とは、大規模に拡大した教育を基軸に形成された、大衆化した社会のことである。」(はじめに(前書き)p.iii)

[2]
「高度に発達した大衆教育社会の第二の特徴は、「メリトクラシーの大衆化状況」と呼ぶ状態である。メリトクラシーとは、能力と努力の結果である「メリット(業績)」を基準に報酬の分配や社会的な地位が決まるしくみのことである。人が「何であるか」ではなく、「何が出来るか」「何ができたか」が重要な選抜基準となる。従って、メリトクラシーとは、「業績主義」を社会の選抜の原理とする社会であるということができる。たとえば、学校のなかでは、学業達成がもっとも代表的なメリット=業績であり、これを基準に将来の進路が決まる場合をメリトクラティックであるということができる。あるいは、企業社会であれば、職業的な業績によって昇進や昇給が決まるしくみのことである。
 メリトクラシーの大衆化状況とは、このようなメリットによる選抜が、社会のすみずみにまで浸透し、しかも、メリット=業績をどのように定義づけるかという点で、標準化と画一化が進んだ、「公平」な手続きの徹底した状態である。」(p.15~16)

[3]
「さらには、選抜の手続きにおいても、多元的な方法を用いて多面的で複雑な選考を行う場合と、試験の合計点だけで合格が決められる場合とでは、選抜の標準化や画一化の程度に差がある。正解と不正解の区別が明瞭につき、試験の結果は一点刻みの点数としてはじきだされる。誰に対しても、同じ基準を用いて、同じ方法で選抜を行う。メリトクラシーの大衆化した状況のもとでは、例外や特権を認めない標準化された選抜方法が、選抜の「公平さ」を保証する重要な要件となる。選抜の方法自体を、だれでも等しくしようとする「平準化」の圧力が加わって、選抜手続きの標準化や画一化が進むのである。」(p.20~21)

[4]
「差別教育の原型にしたがえば、生徒に差別感を与えない教育が「平等」な教育である。ここには、戦後教育の発展の中で育まれたひとつの平等感、平等主義が明確に示されている。そして、もうひとつの平等主義が、能力の平等という見方であった。学力の差異を素質の差とは見ない。いいかえれば、成績の差を、生まれながらの能力の違いとして固定的に見るのではなく、生徒の努力やがんばりによって変わりうるものと見るのである。そのような見方は、例えば、1960年台初頭の、次のような中学教師の考えに明瞭に示されている。

 「すべての子が、すくなくともほとんどの子が100点をとるような力を本来持っているのだし、それを実行しないことは、正しい意味で“教育”を行なっているとはいえないと考えるのだ」(『教育』1962年5月号、28頁)

 だれでもがんばれば、「100点」を取れる。このような見方は、学力差を生まれながらの素質の違いとは見なさず、生得的能力においては決定的ともいえる差異がないという能力観、平等感を基礎としている。こうした能力=平等主義の登場と普及が、能力別学級をタブー視する基盤となっていった。」(p.181~182)

[5]
「既に明らかにしたように、能力主義的-差別教育観のベースには、生徒の差別感を問題視する平等感があった。差別感を生み出す教育が差別教育である。こうした教育のとらえ方は、平等な教育とは、生徒に差別感を生み出さない教育であるという認識に基礎づけられていた。それゆえ、第一に、このような平等主義は、教育の形式的な均等化、すなわち「画一的平等化」を推し進めざるを得なかった。なぜなら、生徒を分け隔てなく同様に扱うことが、差別感を生まない「平等教育」だからである」(p.189~190)

-----

 [1]~[5]と順に読んで頂くとある程度のイメージをもって頂けると思うのですが、少し順番を入れ替えて説明すると、生徒を平等に扱う教育を掲げて教育が行われてきた結果([4])として、形式的に均等化(「画一的平等化」)した教育になり([5])、別け隔てなく同様に扱って育てた生徒たちが「公正さ」の保証された入試に臨む([3])という体制が、学業達成によって進路が定まる日本社会([2])を大規模に拡大させてきた([1])、ということがわかると思われます。

 私も、もしかしたら、「大衆教育社会」の拡大に携わっているのかもしれませんし、私自身が「大衆教育社会」を駆け抜けて、今の職業に就いている、という印象もあります。

 ただ、[3]については、「公平さ」が保証されていない選抜・入試は問題でしょうし、21世紀の現在では、良い学歴を取得することが、必ずしも良い就職やよい人生を得る保証がなくなってきており、終章にあるように、大衆教育社会にゆらぎが生じているのではないか、とも思われます。

-----

 さて、この本を長く引用したのは、理由があります。

 私自身が「平等」「公平」を掲げた「大衆教育社会」の真っ只中にいるものですから、〔ICTによる自由な学び(個々の学習の方向性が定まっておらず、何を学ぶのかが定まっていない“オープンエンドな学び”の提供)〕に戸惑いがあるのです。

 何せ[3]の標準化や画一化は揺るがず、大学入試においては“多元的な方法を用いて多面的で複雑な選考”は一部に留まり、メインはペーパーテストによる一般入試である限り、それに合わせる教育をせざるを得ない(すなわち、どの生徒に対しても[4]と[5]を基本とする)と思うのです。

 「学校教育の情報化」「『21世紀型スキル』の教育」、そして「学びのイノベーション」・・・イノベーションとは「『新しい活用法』(を創造する行為)のこと。」とWikipediaにありますが、社会全体が既に大衆化された教育社会を形成している中でイノベーションを起こすには、相当大変だろうなぁ(くどいですが、[3]の大学入試の崩しが最も困難)と思う次第です。

 生徒向け導入端末を導入し、ICTを活用すれば自ずとイノベーション、という安易なイノベーションはないですよね(-_-;)

 あるとすれば、ICTの草の根普及による〔“教育の新たな大衆化”の緩やかな進行〕という気がします。

#ゲームやスマホなどに慣れた子ども達にとっては、ICTの普及の壁は、
#以前より低いとは思います。

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