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2008年3月2日 - 2008年3月8日の1件の記事

2008.03.05

ディベートへの批判! でも楽しむ(^^)

 ある方から「ディベートを批判しているサイトがあることをご存知ですか?」「サイトの運営者は東北の方のようなので…」という質問を受けました。

 全く知りませんでした(^^ゞ

 確かに、プロフィールを見ると、八戸出身の方のようですが(^^ゞ

 さて、実際には、原典をご覧頂けたらと思いますが、一部引用します。

-----(引用開始)-----
ディベート支持派は、今後改めることが大切

 ここで再び、ディベートの話に戻ろう。思考の道筋を利用した場合、ディベートはどのように扱われるのだろうか。
 作成した道筋の中では、「議論の能力を身に付ける方法」の部分で取り扱う。まず「採用の候補となる習得方法を集める」工程で、1つの候補として挙がる。次の「候補ごとに、習得できる能力を評価する」工程では、思考目的に照らし合わせた評価が下る。「論理的思考と議論やディベートとの関係」で述べたとおり、悪い点が多いと評価せざるを得ない。続く「最良となる習得方法を選ぶ」工程で、採用されない結果となる。
 こうした評価結果は、ディベートを強く支持している人にとって、かなりのショックであろう。しかし、採用に至った今までの判断が、悪すぎたので仕方がない。こうなった原因は、深く考えずに採用を決定したことにある。もし論理的思考方法を知っていれば、思考の道筋から考え始めて、適切な判断ができたはずだ。米国も含めた大学や大学院でさえ論理的思考方法を教えてないのが現状なので、判断を間違ったのは、仕方がない結果といえる。その意味で、ディベートを強く支持していた人達は悪くない。
 ただし、ここで解説した内容を知った後で、自分の過去を否定したくないために、ディベートを支持し続けるのは、相当に悪い行為といえる。こんな行為を続けると、論理的な話が通じない、非論理的をモットーとする人なってしまう。質の高い議論を求めている人なら、そう思われたくないだろう。

-----(引用終了)-----

 この記事は(2002年12月5日)のものらしいので、確かに5年前の教室ディベートの現状を思い起こすと…
 で、現在、こういった批判に耐えられる実践になっているか、と問われても…

 NADEはこういった批判があっても、堂々と“ディベートを支持する”と表明できるのだろうか?

-----

 「ディベートは万能ではない」と、ディベートに長く取り組んだ人ほど、実感していることだと思います。そういう認識でいると、上記のような批判も「そうかもしれませんねぇ」と受容できると思います。

 教育現場でディベートを取り入れる際には、その“限定された”目的と効果をしっかりと認識したうえで授業を計画すべきかと思います。
 もちろん「そもそも教員側に、そういった認識がないから…」という批判でもありますので、そうすると「ディベートに固有な批判ではない」とも解釈できますが。

 しかしながら…
 では、僕は何故ディベートをしているんでしょう?

 …と揺さぶられる必要はないかもしれません。
 「おもしろいと思っているから取り組んでいるんです(^^)」
 好きだからやっています。
 批判のあるなしは関係ありません(^^)
 ディベートという形態のコミュニケーションが好きな人同士で集まっていて、かつ「有意義だ」と感じています。批判される筋合いはありません。
 サッカーでも野球でも、楽しいから取り組むのでは?

 …ですが、「教育ディベート」と銘打っている訳でして、かつ教育的な価値がゼロだとも思っていません。
 むしろ実際には、生徒たちの資質の向上に寄与していると実感できる場面を、たくさん経験してきました。
 ここでは2点、書いておきます。

  1. 言語化
    『考えていること』を実際に言葉にする練習になっている。
  2. 責任のあるコミュニケーション
    発言に根拠を伴わせる練習になっている。
    ジャッジもディベーターも責任のある態度・姿勢が求められる(=教員は積極的に生徒たちに、それを求めても良い)。
    「○○側の勝ちだと思う。理由は、なんとなく、なんだけど…」といった態度が“無責任である”ことに、自ずと気づく。

-----

 それでもやはり「ディベートは万能ではない」ので、別な議論の教育などが登場すれば、そちらを楽しむかもしれません。
 が、当面はディベートを楽しみます(^^)

 なお、同ページにある、下記の批判には同意します。
 常々、由々しき問題だと思っていましたし、これを正せない指導者側にも問題があるとも思っていました。

-----(引用開始)-----
おまけ:ディベートで身に付く悪い行為
(中略)
 反論の際には、ディベートの得意な人が使いがちな手法も何個か登場する。実は、これが一番面白い。その中でも最悪なのは「~は定義がない。定義がないので意味のない意見だ」という反論だ。定義がないのであれば、その定義を相手に求めればよい。また、求める相手が近くにいないなら、定義を推測してみればよい。しかし、そうしないで「意味のない意見だ」と結論付けている。
 では、なぜそうするのだろうか。理由は簡単で、マトモに反論できない内容だからだ。定義が含まれていないことを、反論しなくて済む理由に使っている。単に反論しなくて済むだけでなく、その意見を勝手に却下している。極めてセコイ行為である。
(中略)
 実際、定義がないと指摘した人の多くの意見で、定義が含まれていない。自分の意見は定義が含まれてないのに、他人の意見は定義がないために却下するというのは、相当にズルイ行為でもある。相手には厳しく、自分には甘い基準で評価していることになるのだから。

-----(引用終了)-----

 「定義がない」「根拠が分からない」「証拠がない」=>「だから違う」というたぐいの反駁からはそろそろ脱却しましょうよ>全国の中高生ディベーター

#「定義がないから何?」「根拠が分からないから何?」「証拠がないから何?」と考えてみてください。そこから言及できる結論は「違う」ではない、別な何かのはずです。

追伸:以前もディベートに対する批判を紹介しましたが、その中では「ディベートでは命題を検証できない」、今回は「ディベートでは結論の質が重視されない」という批判が述べられています。
 ・・・『仮説検証パラダイム』でのディベートを見てもらってはどうかと(^_^;)

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