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2007年1月21日 - 2007年1月27日の4件の記事

2007.01.27

黄金律の“2つの向き”とコミュニケーション

 前回、いじめという問題は、歪んだコミュニケーションの典型例という捉え方をしなければ解決しないのでは、という観点で記事を書きました。その観点から考えると、いじめ、そしていじめに至らないなくても人間関係のこじれの中心に、『黄金律』を守れない人(もう少し具体的にに言えば自己中心的でかつ相手がストレスに感じていることも理解できない人)が存在するのではないか思われます。
 加えて、憲法9条を改正するなど、国同士のコミュニケーションのこじれを“武力”で解決することを是と考えようとしている現在の日本が、その自国の教育機関である学校に「いじめをなくせ」と言うことは、そもそもコミュニケーションのこじれを解消しようとする姿勢ではないのでは?ということを付け加えています。要するに「学校に文句を言う方々や国には、そもそも自分で何とかできる(いじめなどのコミュニケーションのこじれを解決する)土台がないのでは?」という疑問が沸いた、ということです。

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 さて、その記事にコメントを下さった、池田修さんから宿題に応答します(^^)/

 「自分はカレーライスが嫌いだから、子どもに食べさせない」という親がいると、子どもは可哀想ですよね、確かに(^^;

 さて、この事例「子どもが嫌がっていますよ。子どもが嫌がることは極力さけてあげて下さい」という方向で解釈することも考えられます。
 ただこのとき、子どもが嫌がっているのは、カレーが食べられないこともそうなのですが、「親が子どもの意向や存在を軽視する=子どもを受容する度合が低い=親の自己中心度が高い」ことの方が本質的に深刻な問題だと思われます。

 かつこのことを保護者に「これはまずいから改善を」と指摘することも、重要なのですが、その指摘により、保護者と教員(などの指摘する側)との関係がこじれることが予想されます

 そこで「子どもの喜ぶことを考えてあげましょう」と、前向き=ポジティブな指導をすることによって、知らず知らずにネガティブな行動を抑制することが可能となります。「保護者と教員(などの指摘する側)との関係がこじれる」という明確なデメリット(今後の教育活動等に悪影響を及ぼす可能性が高まる)を避けることができるので、より良いプランと言えます。

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 上記の事例を踏まえて、黄金律について再び考えます。
 まず、黄金律には、“2つの方向性”があります。

http://www.nuclear.jp/~madarame/lec1/gold.html より
>ある行為がモラルに反しているかどうかの判定方法の一つに、「その行為を他人がする
>とき受け入れられるか」「自分だけのための例外を作ってはいないか」を問うことが行
>われる。普遍化可能性の規準に照らしてどうかを判定するわけである。

>この考え方を定式化したものが黄金律である。黄金律は次に示すように、ほとんどの宗
>教的道徳的教えの中に現れている。

>細かいことを言うなら、「自分の望むことを人にせよ」と「自分の望まないことを人に
>するな」とではベクトルの向きが逆である。日本人はどちらかというと後者のように考
>え、アメリカ人はどちらかというと前者のように考えるというと言い過ぎであろうか。

 2つの方向性がある黄金律は、いずれも本質的には「より良い、望ましい人間関係の形成」という、同じゴールを目指していることが分かります。

 ですが、結果は多少のズレがあることに、丁寧に着目します。

  • 「自分の望むことを人にせよ」 は マイナスの現状 を プラス にする。
  • 「自分の望まないことを人にするな」 は マイナスの現状 を ゼロ にする。

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 いじめの解決を、現場レベルで考えます。
 すると「自分の望まないことを人にするな」を選択することが望ましい、というのが私の見解です。

  • すぐにできる(気が付いた人がやれば良い。協力者を必要としない)
  • 即効性が高い(ストレスの原因が取り除かれれば、そのストレスは生じない)
  • 簡単(望ましいことをするにはスキルが必要。つまり「余計なお世話」の可能性も…)

 前回書いた通り「死を招くいじめ」がなくなることだけで相当重要なのです。
 ですから「自分の望まないことを人にするな」だけでも、特に「自分だったら生きていけないよ」ということを他人にしないだけで十分です。

 ただし、これは“マイナスの現状 を ゼロ”にしているに過ぎないことも見逃せません。(ここが池田さんの指摘!)

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 マイナスからゼロに改善された現状が、再びマイナスに至らないためには、“プラスを生み出す環境づくり”は確かに重要で、そのために「自分の望むことを人にせよ」という指導は大切です。

 ただし、その指導と同時に、「自分の望むこと」=「相手の望むこと」かどうかを検証できるスキルを高める必要があります。

 ですから、その指導をすることができる条件を考えると、

  • 指導する側に、そういった指導をするスキルがある(池田さんは絶対大丈夫!)
  • 指導する時間をかけるゆとりがある

の、少なくともこの2つが満たされている必要があると思われます。
 いじめの解決、特に「死を招くいじめ」の解決には、“生徒の成長を待つ”ということに時間をかけるわけにはいかない、ということですね。

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 逆に言えば、時間があるのなら「自分の望むことを人にせよ」という指導を継続させ、社会全体が良いことを生み出す土台を築くことが大切です。

 その役割を担っているのが「宗教」などでしょう。

 本校はミッションスクールですので、たまにこのような話もできます。
 実際に面と向かって、「自分の望むことを人にせよ」という話をするのは、ちと気恥ずかしいことかもしれません。(これが日本人的なのか(^^;?)

 そして、特定の価値に立脚した教育が難しい公立学校では、更に難しいかも。
 ですが、黄金律は普遍的な価値で、人としての常識ですからね。

… … …

 ただ、そういったことを大上段に構える必要なないと思われます。

 あくまで本校の生徒たちを見ただけでの見解ですが、どんな生徒でも「将来は人の役に立ちたい」とか「人から感謝されると嬉しい」といった、基本的な気持ちはきちんと持っている、という印象があります

 ですから「それなら、相手が困っていることを、もう少しわかってやれ」という、さり気ない指導で、クラス単位でなら良い方向に向かうかと思われるのです。

 そういったことをベースに、「いじめの解決を真剣に考えるのなら…」という一連の記事を書きました。

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 なお、教室ディベート連盟の会員等の皆さんがこちらのBlogをご覧であるのならば…
 『トライアングルNo.59 '06年9月号』に掲載された、NADE九州支部副支部長の池田賢治さんの「『思いやり』のすすめ」をご覧ください。

 ディベートはコミュニケーションの競技ですから、その競技への取り組みを通して、ディベーター全員に“他者を思いやる気持ち”を身につけて欲しいと、私も思います。

 更に私は、教室ディベートの普及のコンセプトとして『思いやりを育てるディベート』が良いのではないか、と、こちらで一度、提示しております。
 これを機に今一度ご覧頂けると幸いです。

 以上、長くなりましたが、池田修先生へのお返事、及びこちらをご覧の皆様への補足説明とさせて頂きます。m(__)m

#追伸:池田さん
 宮城野高校の実践の件、乞うご期待(^^) (実はコメントを頂戴したときには既に…)

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2007.01.26

盲人を“段階的に”いやすイエス

 今日は、学校で行われる朝の礼拝の司会です。担当者が順番等を考慮して、クリスチャンの教員に司会を割り振ります。
 聖書は通読で、自分で好きな聖書の箇所を選ぶわけではありません。
 私に与えられた箇所は、マルコによる福音書8章22~26節。イエスがベトサイダの盲人の目を唾でいやす箇所です。

 ところで私は、物理の教員でして、聖書を専門に学んできた訳ではありません。
 そこで、千人以上の中高生を前に話をするために、前日に予習をします。
 『説教者のための聖書講解』という本が教員用に購入されています。生徒たちにすると“教科書ガイド”みたいな本です。この本では、聖書の箇所を割り振って、複数の(結構な人数の)牧師が解説しているのです。

 私に与えられた聖書の箇所を解説しているのは、偶然にも21年前、私が中学2年で洗礼を受けた際に、私に洗礼を授けて下さった牧師先生でした。
 これが結構感動です。
 当時教会学校で仲の良かった3人がいたのですが、21年前、函館教会からその牧師先生が異動されるということで、「俺達、いつか洗礼を受けるよね」「うん」「どうせ洗礼を受けるなら、今の牧師先生から受けたいよね」「うん」「じゃあ、今年のクリスマスがラストチャンスだから、今年のクリスマスに洗礼受けちゃおうか」「うん、そうしよう!」…と、3人で洗礼を受けたのでした。

 そこで洗礼を受けていなければ、今こうして、東北学院というミッションスクールで教員ができていたか分かりません。

 後日談が2つ。
 うちの妻が今、『三浦綾子読書会』で活躍しているのですが、そこで知り合いになった女子聖学院のK先生が、なんと、その牧師先生を招聘した役員を、異動先の国分寺教会でされていた、ということです。洗礼を受けた側と招聘した側の2人が、何の因果か、うちら夫婦の仙台での行きつけのお店で飲んでいる、その巡り合わせに驚いたのです。

 もう一つ。
 ディベート系の人は感づいたと思いますが、女子聖学院と言えば、言わずと知れた、筑田先生がディベートに取り組む学校です。私も生徒を引率して、何度も訪れたことがあります。
 実は、その牧師先生のご婦人は、人格的にも非常にできた方で、僕ら悪ガキ中高生は本当に育て導いてもらったという御恩でいっぱいなのですが、その牧師婦人が、なんとまあ女子聖学院出身なのだそうです。
 そんな21年前から繋がりがあったとは…これも神様の御計画なのかと驚いたのです。

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 そして、今日、その牧師先生が書かれた講解を元に、話をします。
 この箇所は、他の福音書では取り上げられていません(新共同約聖書ですと、カッコ書きがないことからすぐに分かります)。それは、イエスが盲人を、1度ではいやせずに2度、段階的にいやしされた話だからではないかと言われています。

 ですが、この、2度の施しでいやされたことが、このマルコによる福音書の文脈では重要だと言うのです。
 この箇所の前は、有名な4千人に食べものを与える箇所、人々がしるしを欲しがることを嘆く箇所、ファリサイ派の人々とヘロデのパン種に気をつけるように言っても弟子たちが悟らない箇所です。
 これらの箇所ではそれぞれ、まず、弟子たちや群集が悟っていないところから始まります。例えば4千人に食べものを与える箇所は、僅かな魚とパンとでは人々を満たせないだろうと疑う、という点が描かれています。
 それを受ける形で、ベトサイダの盲人の目をいやす箇所が描かれます。

 ここで大切なのは、一度ではいやされない目を、更にイエスは手をあてて、はっきりと見えるようにして下さったということです。
 いやしは困難であって、だからこそ見えるという奇跡は大きいのです。
 イエスは困難であっても、目の開かれない人に、何度でも手を差し伸べて下さり、最終的に見えるようにして下さるということです。
 つまり、一度では悟ることができない人々、そして私達にも、イエスの導きは何度も訪れ、最終的に見えるようにして下さることを強く証ししている箇所なのです。

 21年前の中学生だった私には何が見えたのでしょうか?少なくとも、見えるように導いて下さった牧師先生がいました。
 いま21年経って、教員になった私が、再び同じ牧師先生の導きを受けて、生徒たちに“同じように見えるようになれ”と呼びかけることとなるとは、21年前の洗礼を受けたときには、全く想像もしていませんでした。

 今の私にも、見えていないことが、まだまだ山のようにあるのだと思いますが、こんな私にも見えない力が、これからも何度もはたらきかけて下さって、より見えるようにして下さるのでしょう。それを昨日は改めて、信じることができました。 アーメン、です。

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2007.01.23

リベンジの一つは叶わず(^^;

 石巻市中学生ディベート大会ですが、本校の参加しない結果となりました。
 少し残念ですが、石巻側の事情を尊重します。
 ということで、スキルアップを図るための部活動での論題は、『動物園』ではなく、もう少し『裁判員制度』でいきます。

>先々代の元部長さん
 コメント有難う(^^)/ リサーチしてみます。
 テレビで見たのですが、やっぱり「そういう例があるのか」と見ると、論題に対する視野も広がり、深い議論ができそうになります。
 ちなみにWは、センター頑張ったぞ。本人の目標には少し足りなかったかもしれないが(^^; 春が楽しみだ。

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 あと、石巻でディベートについて説明する、ということも、調整がつかず見送られました。
 代わりに、参加校のための資料を作成してみます。

 まずは、大会が開催されることが第一!
  それが少しでも有意義になることが望ましいですよね。

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2007.01.21

3人もいる!しかも4人、そして1人で計8人!

 私自身の発想のスタートが「ディベートとはマイナー競技である」っていうことです。
 過剰な期待は持たない方がいいのです。

 『宮城ディベート“楽しみ隊”』に、社会人の方をお招きしたいと考えて、「ディベートは社会に役立つ!講座」を開催しました。宮城県の中高生より、社会人の方がディベートに興味関心がありそう、と思ったからなのです。
 ディベート甲子園の全国が終わった9月から、月1回の例会を先月まで4回、やってきましたが…参加者は、本校の部員と本校のOBだけでした。生徒からは「何でお金を取るの?学校でやれば無料なのに」という意見が聞かれるくらいです(^^;

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 お昼に、本校OBの正臣君から電話がありました。
 「新聞を見た方が1名、参加されるそうです。」

 をを!

 そういえば、丸森西中学校の三浦先生から「生徒が参加するかも」という連絡があったぞ。

 ただ、本校OBのA・司君は、大学の卒論で×、新人のO君は、裁判員制度のフォーラムを聞いた後、急遽論題の変わった例会に来てくれるか?でした。(彼は司法系の進路を考えているので、裁判員制度には高い興味があるでしょうが、動物園はどうかなぁ?と思ったのでした)

 本校の部員が3人、僕、正臣君、確か丸森西のメンバーは3人、二三夫先生、電話を下さった方、久々登場の東海大山形OGのYさん…最大で11人かな?
 資料を11枚コピーしておこうかなあ・・・

 ・・・と、早速、会場近くのコンビニでコピーをとっていたところ、丸森西のメンバーから挨拶されました。「二三夫先生から話を聞いていて、心の準備はOKだったよ」と、少し余裕をかまします。しばらくして二三夫先生も登場して、少し賑やかになるかな、と思って会場へ。

 すると、会場には、初対面の方が1名。連絡を受けた方でした。
 会場案内用のホワイトボードに、例会の案内を書いていると、後ろから別な男性の方が近づいて来まして・・・え、参加して下さるの?と嬉しい驚き。
 更に会場に座っていると、もう一方女性の方が会議室に入って来て下さって…

 初対面の社会人の方が3名!

 更に、丸森西中のメンバーには、以前ディベートの指導に行ったときにいなかったメンバーが1人加わっていて4名に。
 この4名は、“楽しみ隊”例会に初参加のはず。

 更に「もしかしてこないかも」と思っていた新人O君も、遅れながら「裁判員」のフォーラム後に参加してくれました。
 合わせて“楽しみ隊”初参加の人が8名も!

 そして、うちの部員等を含め、今日の参加者、総勢15名!

 繰り返しますが、過去4ヶ月、新規参加者ゼロだった会に、3名の新規参加者が得られるという予想外の展開に、迎える側の僕と正臣君は、嬉しい驚きの衝撃と感動を受ける会となったのです!

 お互いを知らないメンバーが多く集まりましたので、「他者紹介」から開始。
 しかも、初対面のお三方は、ディベートを見たことがない、ということで、ディベートの定義から説明します。

 「ディベートは社会に役立つ!講座」は、「ディベートのコツを会議に活かす」です。

 そして「ミニディベート」として、今回は昨日お知らせした通り、論題を急遽『動物園』に変更して、「立論を聞いて理解し、その上で反論を考えるための“会議を開く”」という実践をしてみました。

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 初対面のお三方は

  • 新聞に掲載された案内を見た方(電話をされた方)
  • 市民活動サポートセンターの機関紙を見た方(男性の方)
  • “楽しみ隊”のWebサイトを見て来て下さった方

と三者三様でしたが、いずれにせよ、今回の「ディベートは社会に役立つ!講座」を案内しようと、僕と正臣君とで宣伝活動をした3つのメディアが全て活かされた形になりました。いやあ、嬉しい!

 当然理想は、今後毎月起こし頂けることなのですが、今年の私は高望みしません!お時間のある時、例会のスケジュールと皆さんの都合とが合致していて、ディベートに対して興味を持って頂けたなら、参加して下さい、という“待ちの姿勢”です。

 部活に新人が入って下さった時にも書きましたが、「模範的なディベートを追い求める活動を継続させていれば、必ずディベーターの輪は広がる!」と思います。
 ディベートの有用性を必要と感じた方々、そして「ディベートって楽しい」と思ってくれる方々に、門戸を開き続けたいと思うのです。

 継続は力なりです。
  そして、「ディベートっておもしろい」と思ってくれる人が一人でもいれば、
  力が沸いてきます!

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