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2005年1月30日 - 2005年2月5日の6件の記事

2005.02.05

リーダーとしての監督

 今年のベガルタには期待している!

 blogもできたということで、ようやく、自分が見たチームについての意見を堂々と提示できる機会ができました。
 「ディベート」「クリスチャンとして」「教育実践」と書いてきましたが、満を持してベガルタネタです(^^)

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 僕はベルデニック解任賛成派でした。
 ベルデニックサッカーの何がまずかったって、

●ダイレクトパスにこだわらせすぎ
→受け手がダイレクトパスを受ける位置に走る→パスが奪われる→受け手の選手は戻れない
=>そんなことにこだわるより、安全かつ有利なパスを選手に考えさせた方がマシ=>つまり“普通のサッカー”
=>「ダイレクトパスを繋ぐ戦術はやめよう」と言うだけで実現する=監督解任
#ちなみに選手だってバカじゃないんだから、ダイレクトパスが出せるゆとりがあれば自然にやりますって。
#まあ、事実、ダイレクトパスが通った瞬間に、劇的に有利な構図が完成、というシーンも何度かあった。
#それでも、パスが通らない時のリスクが大きかった。

●「ゴール前では自分より有利な状況の選手にパスを出せ」=「自分で勝負するのはわがまま」 ←ダメダメ!
→ゴール前で勝負して勝てば有利になるような場面でもパスを出す。
→パスを出し、味方の選手にボールが届くまでの間に、相手ディフェンダーの戻りが“間に合う”
=>つまり、“パスを出した瞬間”は有利な位置だった選手も、“パスが届いた瞬間”には不利な位置になっている。
=>そもそも「勝負するな」では、モチベーションが下がるだけでしょうに!

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 1月22日(土)は、仙台スタジアム(通称仙スタ:我らが聖地)のゴール裏で応援する面々の新年会でした。
 そこで仕入れた情報は、私を更に安心させました。

・練習場にサポーターを入れる(報道もされていました)
 選手の迷惑にならないように、キーパー練習のところにだそうですが、練習を見に行ったサポーターは大喜び。
 地域密着、ファンサービスで楽天に遅れをとらないようにということかな。

○練習中の円陣が減る
 ベルデニックの時には、選手のボール回しが良いように見えても、練習を中断し、ベルデニックの指示を“通訳”して伝えるために、円陣を組ませていたそうです。
 ところが今度は、監督もコーチも日本人なので、大声で指示を出せば済むようになり、練習を中断させることが減ったそうです。
 それは、間違いなく“練習の改善”に繋がったことでしょう!

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 都並新監督、当然Jでの実績はないのですが、「戦う姿勢」「守備の立て直し=リスク管理」「チーム内のコミュニケーション=和を保つ」方針でのチーム作りに期待です。
 「理想を追うだけでは足元をすくわれる」というアドバイスを聞いたと、マスコミに答えている…それを口にできるだけでももう、期待できる監督交代だったのではないかと思っています。

 あるプロスポーツの集団が、試合で勝つことを目的に競技に取り組んでいるのですから、監督には“強い”リーダーシップが必要です。いや、リーダーシップというより「こういう方針でやろう」というビジョンを伝える能力、でしょうか。かつ、ビジョンは、勝利に直結しているものでなければダメですね。新監督、頼みます!


 とにかく、熱く激しく楽しく、今年も仙スタでの応援をするだけです。
 「あの応援を味方にできるのは心強い」と言って移籍して来てくれた選手の皆さん、どうぞお楽しみに(^^)!

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2005.02.04

オンD、体験しませんか?参加者急募!

 オンラインディベート(略称:オンD)は当初、100校プロジェクトの企画として、ネットワークを介した学校間交流という形で行なわれていました。
 しかしながら、ネットワークを介したディベートという形で学校間交流を行なうには、双方にディベートのスキルが必要で、ディベートが今ほど普及していなかったことも相まって、結果としてオンDは停滞しました。
 そこで、「ディベートをやりたいという“個人が最低でも2人いれば”試合は成立する」という観点から、個人が参加するサイトへとリニューアルして、現在に至ります。

 ところが先日、田園調布雙葉中学高等学校の情報科の小林先生から、中学3年の情報と国語の授業を連携させ、口頭でのディベートに加え、ネットワークを介したディベートを体験させたい、ということを打診されました。
 メールと電話で小林先生と打ち合わせを進め、オンDとしては久しぶりに、授業で活用されるオンラインディベートを展開することとなりました。

 論題は、田園調布雙葉中学の生徒さんと小林先生の意向を踏まえ、

「日本の中学・高校は、生徒の携帯電話の持ち込み、及び校内での使用を認めるべきである。是か非か」
「日本の中学・高校は、生徒のアルバイトを認めるべきである。是か非か」

としました。

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 さて、当blogをご覧の皆さんに呼び掛けます。

 田園調布雙葉中学の皆さんと、各論題について、3クラス×2組の、対戦相手を探さなくてはなりません!
 論題が2つありますので、最大で12組の対戦相手が必要ですが、一組が両方の論題を担当しても構いませんので、結局6~12のエントリーが必要となります。

 本校のディベート部員が5人いますので、最悪の場合5人に対戦相手を務めさせ、あと一人、何とかお願いするということになるのかもしれませんが、折角ですので、これを機にオンDを体験したいという方がいらっしゃれば、是非一緒にやりましょう!

 1立1反で、立論も反駁も800文字、短くてシンプルなフォーマットです。
 ただ、どちらの論題でも否定側を担当して下さい。

 申込は、オンDのサイト内にある専用フォームを御利用下さい。

 また参加しない方でも、どのような授業実践となるのか、見守って戴けると幸いです。
 対戦終了後には、皆さんから判定意見の募集もしますので(^^)

 田園調布雙葉中学の生徒さんが、どのような主張をされるのか、楽しみです。

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2005.02.03

眠っている人材と眠っている物

 仙台には『ライブ会議』というミーティングがあります。

「ライブ会議」は、一人ひとりの多様な価値観・背景・関心分野・経験・スキルなどを自由に交差させる場。出会うことで視野が広がり、自己の再発見、あるいは関心が耕される・・・そんなわくわくする出会いの場でもある。 決まりはひとつ。「考え方や価値観や感性が違うのはあたりまえ。互いに拒否せず、まずは聴き合おう!」

 妻が運営や企画等で頑張っています。
 僕は、たまに顔を出すくらいです。

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 ですが、1月22日(土)に行なわれた、第38回のライブ会議で、僕が司会をすることになりました。
 そのライブ会議は『Smile Jam →Round1~「ひと、いのち」をかんがえる一日』の1セッションでした。

 今回のメインスピーカーは、尚絅学院大学の助教授であり、『仙台夜まわりグループ』代表の今井誠二氏でした。

 テーマ;「仙台のホームレスの実態って…自律支援って何ができるの?」

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 皆さん、ホームレスに関する問題って、正しく理解出来ていますか?偏見があったり、誤解を持ちやすい分野だと思うのですが、どうでしょう?
 私もお話を伺って、学ばされました。

 「憲法で『国民が最低限の生活を補償する』と言っているのだから、保障されていない人のために県と交渉をする」…うーんなるほど、そういうことが活動のベースなのか。
 「話してみると、好きでホームレスになった訳ではない人もいる。景気のいい時に労働者を囲い込み、不況になったら首を切る・・・労働者が“物のように”扱われている一方で、労働者の権利が教えられていない」…うーん、資本主義社会の歪みがそこにあるのか。
 「彼らは“屋根のない仙台市民”である。屋根のある市民であっても話をしたくない人もいるでしょう。屋根のない仙台市民でも気さくに話をしやすい人もいる」…うーんなるほど、人と接する時には格好等で判断しちゃダメですよね。自分の中の“壁”を壊さなくては。

 今井先生がクリスチャンである、ということも聞いて、「やはりそういったことが背景にあっての活動なのか」とも思ったり。
 また『仙台夜まわりグループ』では、ホームレスの方々に清掃事業やリサイクル事業という形で“仕事をつくり”、ホームレスの方々が収入を得られるような活動をしているそうです。そのようにして、社会復帰の道を整え、送り出す活動をされているのですね。

 その話の時に出てきた言葉が

   「眠っている人材を掘り起こす」

というものです。

 サポートにより、社会の一員に戻れるような、そういった“人がいる”ということですね。

 私達が目を背けがちな話題でしたが、自分の側で勝手に“壁”をつくって分け隔てをしないように受け止めることが大事かと。

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 当日会場には、ホームレスの方もたくさん来て下さっていて、当の本人達を前にして質問しても失礼ではないのか?と焦りながら司会をしていました。

 で、最後に気がついたことがあります。

  皆さんのご家庭にも、“眠っている物”ありませんか?

 眠っているだけなら、ちょっと配慮して、社会に役立てましょうよ!

 仙台ですと、3月1日から『仙台夜まわりグループ』のリユース事業所が若林区大和町に移転します。

 使えない物を献品しても、相手側に迷惑ですのでご注意を。
 使い捨てカイロやタオル、下着(未使用のもの)、毛布等(使用していても洗っていて清潔ならOK)などあれば、積極的に持って行こうかな、それくらいなら僕でもできるかな、と思った次第です。

 詳しくは『仙台夜まわりグループ』のWebサイトを御覧ください。

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2005.02.02

目が開かれる

 学校の朝の礼拝で、今日はヨハネによる福音書9章が読まれました。
 「生まれつきの盲人をいやす」ところです。

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「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。(3節)」

…その通り。因果関係ないですって。
 ま、科学にも、そういった罪といった社会的な観念から“客観的”になり、真の因果関係だけを取り出すはたらきがあるのですよね。

「神の業がこの人に現れるためである」

…をを!

 今日の宗教主任によるお話しでは、この盲人が人々からの「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」という問いに「あのかたは予言者です(17節)」と答えたことを指摘。
 そして、イエスはこの人の目を開いて下さっただけでなく、イエスを予言者と告白できるほどに、“心の目を開いて下さった”と。


 そうなんですよ。
 正しいものを正しい判断できる知恵と感性が欲しいんですよ!

  その知恵と感性と“恵み”によって開かれる“心の目”で、社会の正しいものを見分ける力が欲しいのですよ。


  私も、自分の“心の目”が、もっと開かれたなら、と、強く願うのです。
  そのために、このblogを始めたようなものです。

#科学は、因果関係の確かさを示すもので、
# 「良い」とか「悪い」といった観点がありません。
#(例:原爆で人が死ぬのは<事実>ですが
#    科学ではそれを「良い」とも「悪い」とも記述しません。)
#何を「良い」と判断するのか、は、人の倫理観に左右されます。
# まさに「でぃべーたぶる」なところです。
#ですが代わりに宗教は「私達にとって良いものは何か」を提示してくれます。
#そして私は、クリスチャンなのです。
# 自分を振り返っても、今でも、クリスチャンで良かったと思っています。


  私にも導きがありますように。アーメン。

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2005.01.30

丁寧に問いを詰める

 東北学院中高では、毎朝、中学1年生から高校3年生まで、6学年全員が礼拝堂に集い、礼拝を守ります。
 違う形態の時期もあったと聞きますが、今では“毎日・全員で”が伝統です。
(これをしているのはミッションスクールの中でも少ない方、かな?)

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 数ヶ月に1回、私に、礼拝司会(証しも行なう)が回ってきます。
 1月15日(土)センター試験の日に、ヨハネ7:10-24の箇所を担当することになりました。(本校では聖書を通読していて、どこの聖書の箇所を担当するかを、司会が決めることができません)

 聖書を読んだことのある方はご存じだと思いますが、ヨハネの福音書を証しするのは難しい(^^;
 そこで、本校の聖書科の先生が持っていた、加藤常昭著『ヨハネによる福音書 講解説教2』(ヨルダン社)を参考に証しを考えました。

 ヨハネ7:10-24は、イエスとユダヤ人が議論するところです。仮庵祭(かりいおさい)といって「エジプトから脱出したばかりで現在は借り住まい(テント等)ではあるが、今後もエジプトから民全体を救って下さった力ある神に心を委ねる」ことを記念するお祭りであるにも関わらず、その救われたユダヤ人は、イエスを殺そうと狙っているのです。

 イエスは「私は神から遣わされた。神を信じるなら私を信じるはず」と主張します。
 ユダヤ人は「あなた(イエス)は群集を惑わしている」「あなたは悪霊にとりつかれている」と主張します。
 ・・・かみ合っていません(^^; 特にユダヤ人は「理解出来ない→悪霊だ」と、根拠なく断定するもので、誉められたものではありません(^^;

 イエスは問います。「なぜ私を殺そうとするのか(19節)」
 ユダヤ人は「誰があなたを殺そういうのか」とごまかしますが・・・『ヨハネによる福音書 講解説教2』には「この箇所にユダヤ人がイエスを殺そうとした理由がある」と説きます。

 簡単です。「ユダヤ人はイエスに腹が立った(23節)ので、殺そうとした」という解釈です。

 腹が立ったから、殺す・・・なんとまあ、今でも繰り返されている構図です。
 人間個人の狭い視野の中だけの判断で、人は他人を殺すのですね。2000年前も今も。

 「理解できないものは排除すべし」では、いつまでたっても「神の愛には達しないのは明らかです!」

 イエスの「なぜ、私を殺そうとするのか」という問いは、私達人間全体に問われていることに気付かされます。

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 議論が嫌いという人や、議論を避けて通る人、議論がうまくできない人、いろいろいるでしょう。

 証しの準備の時、『ヨハネによる福音書 講解説教2』のある箇所に目がとまりました。

「(結局ユダヤ人はイエスを十字架の上で殺すに至ることを踏まえて)なぜ、誰が、神の愛を殺したのか、丁寧に問いを詰めることによって初めて、神に愛されていることの深さと強さを知るのです。」

 をを、なんとまあ!

 高校生くらいからでしょうか。たまに真剣に「神様っているんだろうか」とか、考えていました。

 いやあ、今、ディベート部の顧問です。
 確かに、論題に関して、深く問いを詰めることによって、大切な“価値”に気付くことがあります。自分の学びが深まる瞬間があります。


  “丁寧に問いを詰める”ことが、かくも大事なのだと、教えられました。
  御言葉を与えられたことに感謝!アーメン。

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あやまりを発見

 妻からのメール

--- ↓ 以下 引用 ↓ ---

  うる覚え…ではなく「うろ覚え」です

  子鶴ではなく 「小鶴」と思います。
  確認してね☆

--- ↑  引用終了  ↑ ---

 さすが妻は文系! 修正いたしました。m(_ _)m
 ネットに公開されているので、誤りがあれば、なおさねば(^^;

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